トライアの神々

 さて、世間一般がゼルダで浮かれている中、
SFCの『トライフォースの神々』とさえまったく関係のない話題です。
私がプレー済みのトライエース作品に対して
宗教的な側面からあれこれのたまってみようという試みです。
ええ、比較宗教学は可でした。しかも、レポートの内容はエヴァについて。
こんな生き方してます。むしろよく単位がきました。
ちなみに、以下全てネタバレです。エンディングの話ばかりです。
知りたくない方はスルー推奨です。


 まずはSO2。十賢者はすべて神々(天使)の名前をつかさどっています。
メタトロンは除きますが(修正:本当は天使らしいです)。
この神々は全てランティス博士によって創造され、
全知全能の神のはずが基本的には博士の意思によって
プログラムされています。唯一ルシフェルだけがこれに抗していますが、
ガブリエルは博士そのものの人格を移植されているので、
ランティス博士が神そのものだといっても過言ではないでしょう。
最終的にはそのプログラムに抗うことができず破壊に執着し、
創造者(=自分)もある程度をうらみつつも、結局のところ
これに逆らうことができなかった創造物として描かれています。
略せば、創造主への反抗心、しかし、抗えず。


 次にVP。オーディンは神であり、レナスはそれに仕える身。
レナスは神の魂にエルフの肉体を得ることで神へと昇華し、
全てを破壊しつくさんとするロキを倒し、自分が世界を創造する。
創造主への反抗はルシオ関連で描かれ、そこに疑いを持ち、
自らが望むような世界を作り出すために自らを神へと変化していく。
このあたりは非常に綺麗にまとまっていて、確かにVPはこれで
半分完結してもよかったのでは、という意見もありますが。
ただ、VP2は未プレーのため安直なことは言えず。
とにもかくも、VPは創造主への反抗、そして創造主への転換。


 SO3。主人公たちはFD人によって創造された身。
その製作者たるFD人が主人公たちに脅威を感じ、
創造主がそれを粛清しようと自分たちを滅ぼそうとする、
だが、そこに反抗する主人公たち。
もう自分たちは創造主の所有物ではないのだから。
創造主への反抗と、創造主からの開放。


 そして、SO1では、(ジエ・リヴォースの)創造主への憎しみや悲しみ、
一方でやはり抗うことができない、これが自分の生み出された
理由であるから、というSO2とほとんど同じようなものです。


 こう考えると、トライエース関連の作品は
全て”神”がキーワードになってきます。
ただし、その神は具現化された神であって、
その神と創造物と、という形での葛藤や思想が
非常に多く含まれています。
VPやSO3(賛否両論ですが)は個人的には
比較的上手くまとまった感がありますが、
SO1,2に関してはどうしようもないというか、
反抗期に反抗しきれない子供というか、
そういう印象が拭い切れません、クロード含め。


 現実に、神は見えないのだから、具現化してそれとどうこうする、
というのがテレビゲームではありがちであり、
また、人々が一生背負っていく功罪的な部分もあり。
知恵の実を食べた時点で私達は神から半分見捨てられていますし、
故に一人で歩かねばならない、というこの2千年近く論じられる
テーマがちらつくのはありだとは思います。
ただ、やはり議論の仕方が甘いか、とも思わせます。


 一方で“神”と”創造”を扱った作品群を生み出す会社といえば、
そう、クインテット天地創造はやはり神ゲーです。
天地創造はアークは神に作られた身であり、
その神の言う事をしっかり守りつつ、でも、自分の考えももちつつ、
結局最終的に自分の判断で行動を決めて、神を倒す、
という極めてオーソドックスな作りながらも、
極めて綺麗な形でストーリーを作成しているという印象があります。


 ストーリーを完全主軸に置いた作品がトライアの作品では
見受けた印象があまりありません。戦闘が楽しすぎることを差し引いてもです。
ここら辺、もう少し煮詰めてみるのも個人的には楽しいかと思っています。
いや、もちろんメーカーもプレーヤーも。
ただ、個人的な野望に即して色々考察を深めたいとも思っていますが。


 以上、ドストの『悪霊』を読みながらのコメントでした。